何日も空いてしまってすみません。悲しみに暮れていたとかではなく、単にその後の日常に忙殺されていて疲れて書けなかったりしてました。息子と一日中家に一緒にいると、拘りは強いし苛々し出すと落ち着くのに時間がかかり、その後の用事が何も出来ず時間が徒に過ぎていくという事が多くて参っています。もう、いつまでこの生活が続けられるのか、いつ
ある決断をしようか最近悩んでいるのです。
さっき、ブログを書きながらしばらく寝てしまっていました。しまったしまった。
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さて、祖母が亡くなって翌日、告別式があった。それもお通夜同様家族だけのこじんまりとしたものだった。祖母は以前は店を切り盛りしていたが、30年前に脳梗塞で倒れて以来ずっと寝たきりに近い生活を送ってきた。それに近所や組合だの外での付き合いをしない人だったようで(組合の方は祖父がやっていたようだが、店の仕事はあまりしなかったようだ)、祖母を知ってる者も家族以外ほとんどいない状態だったのだ。
告別式の間だけ、統合失調症で病院に入っている伯母が介護タクシーに乗ってやって来た。車椅子で歩けないが、前よりほっそりして死んだ祖母と顔が似ているとあらためて思った。祖母も伯母も元は肥満体形だった。死んだ祖母は亡くなった時は40キロ未満だったようだ。何と小さくなった事か。
葬儀が終わると、祖母の棺に百合や菊などの白い花を入れた。個人的にはどちらも地味で抹香くさくてあまり好きじゃない。もっと華やかな花がいいと思ったが、文句を言う立場ではないので黙っていた。戒名は漢字四文字。父は戒名にこだわりはないので適当にお坊さんにお任せしたようだ。別になくてもいいのにね。これも個人的意見だが。
さて、その後棺は霊柩車に入れられ、後は車数台で斎場まで行く。統合失調症の伯母を別の伯母が付き添って病院まで送り届けに行き、別の伯母は後で初七日のため葬儀会場まで戻ってきた。父が戒名が書かれた札を、叔母が遺影を、私が骨壷を持った。
斎場は山奥で、下界から離れた別世界のように感じた。棺を焼却炉の手前の祭壇に一旦降ろし、お経をあげてから焼却炉まで持っていく。この建物の冷えた空気、殺風景さ。焼却炉に棺が入る。焼却炉の奥は何かパン焼き機のように見えた。これで祖母の姿の見納め。棺ごと焼かれ、骨になる。鉄の扉が閉まった。
後は、お骨拾いまで1時間以上あったので、ロビーに移り親族で固まって座って雑談していた。他にも何組も来ていて賑わっていた。私はこの日夜中3時過ぎまで店番をし、それからブログを書いて入浴して寝た。だから睡眠不足で、当日寝坊しかけて朝食をとらずにきた(ついでにネックレスも忘れた)ので、腹の虫が鳴っていた。なので、喫茶室に入ってピラフを食べた。少し胃袋が落ち着いた。
そして、時間が来ると呼ばれてお骨拾いに行った。祖母の骨はしっかりした形で残っていた。私はお骨拾いは初めてなので、いざその時どう感じるか不安だった。しかし、あまりにも冷静で何も感じない自分に驚いた。だって、そこにあるのは骨だけで祖母の姿はない。骨はただの物体にしか見えない。呆気ないものだ。
お骨を長い箸を持って順番に拾って骨壷に入れる。骨壷は小さいから当然全部は入らない。残りは他の方の骨とまとめて弔うので粗末にされる事はないと職員は言っていたが、要は廃棄される訳だ。
私は骨を触ってみたくなり、頭蓋骨の欠片を手に取った。高熱で焼かれたので骨は軽くなって、軽石のようであった。黙って骨を眺めて触れていたら、叔母に「そんなん、触らんときぃな」と言われた。私は黙って骨を戻したが、悪いとは思っていない。亡くなった者への別れに頬や手を触れるのは何も言われないのに、骨に触れて何故いけない?納得のいく説明ができる?しかし、雰囲気を考えて敢えて反論しなかった。相手もそんなにきつい口調ではなかったから。
斎場を何台かのタクシーで出て、先程の葬儀会場へ。初七日とは本来、一週間経ってから行うものだが最近は簡素化され、その日のうちに済ませてしまう事が多い。皆仕事や生活を抱えて忙しいから、度々集まってやってられない。
そこへ通夜からずっとお経をあげていたお坊さんが来た。
この方、年齢は結構若くて多分40代前半ぐらい。毎月先祖の供養に家にお経をあげに来る人である。店が忙しい時に来られた時など、内心お茶や御礼の用意をするのが面倒で邪魔くさいなぁと思ったりするんである。この方の読経、声はよく通るいい声なのだが独特の節回しで、何を言っているのかさっぱりわからない。わかるのは最後のナムアミダブツぐらいなものだ。勿論普通に喋る時は全然そんな事はないのだけど。
そして初七日が終わり、行事は終わった。
後は集まった者の食事会だが、父は従弟が告別式が終われば帰るだろうと思って弁当を7つしか注文しなかったのだが、従弟がずっと来ていた為、最後会場に居たのは8人だった。母が父に文句を言っていたが、しかしこれは帰る絶好の機会である。夜には息子が帰ってくる。寝不足でしんどい私としては、ぜひその前に仮眠を取りたい。
で、母と相談して私は他の親戚にお疲れ様でしたと言って、サッサと帰路についた。ありがたい。自宅に帰ると、即行喪服を脱いで部屋着に着替え、サンドイッチをパクついて眠った。
こうして、たった2日間が目まぐるしく過ぎ、翌日から相変わらずの慌ただしい日常に戻った。祖母の遺影とお骨はお墓に入るまでのしばらくの間、事務室の一隅に置かれている。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
興味のない方にとっては退屈な話だったでしょうか?
でも、この年齢になると、嫌でも先の事を考えてしまう。両親、そして自身、息子の今後……。若い時より確実に死が間近に感じられるようになってきた。耳を塞ぎたい。まだ、両親の死の事など考えたくもない。でも、いつまでも親はいない。四六時中考えてなどいられないが、永遠にこの時は続かない事は頭の片隅に留めておかねばならない。
その為に、死ぬとはこういうものだという事をしっかり認識したくて記録しました。
では、またです。